隣人の温度感を冷凍せしめる言葉がある。それは「努力」だ。
信心深いヨブは家族にも財産にも恵まれ幸せな生活を送っていた。しかし、無罪な彼は財産も家族も失い、とうとう自らも病に冒されることとなる。そんな彼に、友人は「お前が自覚していない罪を犯しているからだ。」と言い放つ。
さて、このヨブ記は「浄らかな者は救われる」と対立して、「救われない者は穢れている」と語る。誰もが理不尽と思うだろう。だが、次はどうだろうか。「努力すれば報われる」。
(普通の)人間は未来を見る能力はない。したがって、自らの行いが未来にどのような影響を及ぼすか知る由はないのである。では、何故今の地位や名誉は努力の結果と言う者が現れるのだろうか。当然、同じ時間や環境の自分を二人用意して対照実験した訳でもあるまい。
東大生の親の平均年収は1000万円と言われる。つまり、そのような家庭に育つ子は十分すぎるほどの教育を受けられる環境があるわけだ。もしも、貧しい家庭に生まれ育ったとして、それでも東大に合格できる人間は幾らいるだろうか。そして、合格は全て「努力」の結果と言えるだろうか。
「努力」と言う言葉は個人の環境を無視して、人類皆平等と固定する力があるように思う。人間は運や背景に寄らずスタートラインは同じと錯覚させる。では、スタートラインを同じにしたい理由はなんだろうか。
一つは、自分は勤勉な人間であると肯定するためである。先に述べた通り、得られた名誉などの「結果」は環境に依存するところもある。たまたま裕福な家庭に生まれ、たまたま高級な教育が受けられ、たまたま大学に合格し、たまたま上場企業に就職する。こうした生まれの優位さを無視して、偶然の結果を「努力」とみなして肯定したい訳である。
もう一つは他人の問題を考えたくないからのように思える。他人のことなんか知ったことでもないし、もしかしたら、自分の価値観と衝突し、先に述べた理不尽な自尊心に傷をつけるかもしれない。故に、努力不足と他者を突き放すのである。
努力論は美徳とされがちだが、裏を返せば自己責任論につながる。ヨブは友人に突き放され、冷凍室送りにされる。もし私が彼だったら、そういう思慮が彼を解凍することだろう。